流れてきた話を、シエラはただただ呆然としながら聞いていた。発せられた音は鼓膜を揺らして、確かに頭に届いているはずなのに、その意味をシエラは理解できないでいた。

「……え?」

やっとのことでそれだけ言ったが、それ以上のことは言わなかった。
いや、言えなかった。
何故なら、言われたことにまだ思考が追い付いていなかったのだから。

「……な、…………」

反応できない。
どうしてと問うこともできない。
問えば、意図も簡単に答えが差し出されることが分かっているから。問いに答え が出されるということは、それが事実であることを、認めざるをえなくなってしまうから。
嘘であって……、と心の底から願った。
だが、目の前にいる薄桃色の髪をした男から発せられた言葉が、覆ることはなかった。

「もう一度話そうか?」

感情の読み取れない表情でこの国の公王は言った。慈しみを含んでいるようにも、嘲笑っているようにも見える笑みを顔に張りつけて、厳しさの籠った優しい声でシエラにそう告げた。
シエラはまた返事ができなかったが、公王は構わず先ほどと同じことを言った。

「……あちらの国の姫様が、君のことをとても気に入ったようでね……、侍女として君を国に連れて帰りたい、と言っているんだ」

そこで一度言葉を切った。
その間は一瞬だったが、シエラには酷く長い時間のように感じられた。

「 だから君も、明日までに荷物をまとめて彼等に同行するように、とそう言ったんだよ」

シエラは意識が遠くなるような気がした。
自分の知っているものが全て知らないもののような、突然異空間にでも飛ばされてしまったかのような、そんな感覚を味わっていた。
自分だけがその状況に酷く浮いていて、それでも目の前の誰かと自分の中の何かが、自分を世界に繋げていた。
シエラは自分の信じてきた世界のすべてに裏切られたような気がした。

どうして行かなくちゃいけないの?どうしてクレアはそんなことを言ったの?
どうして……私はここにいたいって……言えないの……?

……分からない。

涙が溢れそうになった。

「な、なんで……?」

声が震えていた。
やっと問うことができた疑問の答えを、シエラは知っているような気がしていた。
だってそれは質問というより、憤りに近かったのだから。

公王は、温和に微笑んで…まるで舞台の役者が台詞を言うように、当たり前の如くこう言った。

「シエラ……、確かに僕らには市民を守る義務がある。降りかかった理不尽に屈する気もない。でも、もしそれが人一人の自由を明け渡すだけで争いの火種を蒔かずにすむのなら……、私は喜んで彼等に君を渡すことを選ぶよ。彼等は命まで取ろうとは言っていない。幸い、あちらの姫様は酷く幼いようだし……。そんなことはしないだろう」

公王はゆっくりとした声でそこまで言って、シエラに歩み寄った。
椅子に座っているシエラに、普段ならあり得ないことだが……膝をついて、シエラに目線を合わせた。
薄い茶色の目がシエラを見つめる。目を合わせているのに、その感情がシエラには全く読み取れなかった。

「だから……カシリア王国に、行ってくれるね?」

シエラは押し黙った。
“うん”とも“いや”とも言えなかった。
自分の肩に他人の命が乗せられている。つまりはそういうことだとシエラは幼いながらに理解した。

(いけにえ……なのかも。わたしは)

シエラの国には年に四回、竜神に生け贄をする習慣がある。山で取れたシシヤマウサギ(獅子山というライオンが多く生息している山で採れるうさぎ。とても筋肉質で美味)を竜神さまがおりてくるとされる祭壇にお供えするのだ。シエラはその場面を学校の社会見学で見たことがある。もっとも、見たと言っても生きたままのウサギが檻に入れられたまま、そこに放置されていく様子を見ただけだったが。

(もしかしたら……それと同じなのかも)

檻のなかに入れられて、誰かを守るために誰かに捧げられるウサギと自分は同じなのかもしれない、とそう思った。
呆然としていると、公王はシエラが無言でいることを肯定と受け取ったのか、にっこりと微笑んで“分かったら、必要な物をまとめて来なさい。出発は明日だよ”と言った。
付け加えて、最低限必要な衣類などは用意してもらえることなどを説明されたが、シエラはあまりよく覚えていなった。
それからどうやって、その建物を出たのかシエラはあまりよく覚えていない。ただ、よく知らない大人に連れられて、公王の住む宮を背負った、ニジクジラ(竜の一種。エラの一部が翼のようになっていて、泳ぐことも空を飛ぶこともできる。非常に希少な種類で、体に虹のような模様が付いていることからその名がつけられた)から鳥のようなものに乗って、地上に降ろされたことだけはおぼろげに覚えていた。
鳥から降りて、地上に着くとそこには義母と義父に連れられた妹がそこにいた。
一瞬誰だか分からなくて見つめていると、義母がこちらに駆けつけてきて、シエラを抱きしめた。
シエラは一瞬何が起きたのか分からなくて、わずかに驚いた顔をしたが、すぐにまた感情の読み取れない顔になった。
“ぬけがら”。
幼い妹は血の繋がらない姉のこの時の様子を、後にそう語った。
まるで魂をどこかに置き忘れてきたようだった、と。

義母は気づかうようにシエラの背中をさすった。シエラはしばらく放心したようにされるがままになっていたが、しだいに事態を理解したのか、下を向いて歯をくいしばっていた。義母はシエラの小さな手が震えているのを見ると一瞬悲しそうな顔をした後、微笑み、落ち着いた声色でシエラに囁いた。

「……行きたくなかったら…行かなくても、いいのよ?」

シエラは、ハッとして顔を上げた。穏和な義母の微笑みが目の前にあって、その少し奥の方に心配そうな義父の顔と、少し不思議そうな顔の妹が見えた。順番にそれらの顔を何度か見た後、シエラは意を決したように目を瞑り、そして目を開けると同時に顔を上げて、義母に明るい声でこう言った。

「私、行くよ」

シエラは自分の不安を誤魔化すように少し笑った。義母は一瞬驚いた顔をしたが、シエラと同じように笑った。

「……そう。なら、ここでは学べないことをいっぱい学んでいらっしゃい」

今度はシエラが驚いた顔をする番だった。そんな考えかたもできるのか、とシエラは感心していた。

「でも、帰りたくなったらいつでも帰って来ていいんだからね?苦しいこと悲しいことがあって、もし……あなたがそこを逃げ出したくなったら……いつでも帰っていらっしゃい」

シエラは目を潤ませて小さく“うん”と言った。
シエラは自分でも気づいていなかったが、まさかそこまで言ってもらえるとは思っていなかったのだった。心の奥底で自分が酷くお荷物になっているのでは、と自負していて、それ故に出ていきたくないと言えなかったのだった。
しかし、シエラがそのことに気づくのはまだずっと先の話である。







次の日の朝。
身支度を整えて見慣れた家を後にする。
その時シエラは大きな声で“いってきます”と言った。いつか必ず、この家に帰ってくる、そう晴れ渡った青空に誓って。
これが……後に多くを見、得ては失い、苦しんで笑うことを覚える彼女の人生のもう一つの始まりだった。





第一章 終幕

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